昭和40年05月05日 朝の御理解
昨夜のご理解に組織と言う事をについて頂いた。組織が出来ると。昨日秋永先生が四日会でございましたから、久原の教会の開教35年史というこういう、その見事な本が出来ておるですね。これを初めて久原の教会の信心の内容に触れた感じで御座いました。行った事も御座いませんし先生もよく知りませんし大変ご非礼の立つ教会である。
もう組織においては、日本一と言われるほどの、それこそ末梢神経に至るまで、神経に行き届いた、組織が出来ておるという、話は聞いておりましたけれども、これ見ていよいよなるほど、と合点が行きます。その事を私、思わせて頂きよりましたら、神様から頂きますのに、「組織が合掌の姿。」と頂いた。拝む。それから、また今朝から、あの、そのことを又、深めて頂いた訳なんですけども、組織が出来たということだけが、なら合掌の姿じゃないという。
例えば、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢が掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上がるような道理だと。一家勢を揃えて、信心をせよと仰ることは、一家の中に信心の、組織が出来るという事。一家中の全部の者が、信心をさせて頂くと言う事。そしてその、(全部?)のその信心の者が一つの事に対してですたい、働きかけが始まる時に、初めてこれが合掌の姿である。
夫婦が親子が兄弟が。一つの事に焦点を置いて祈らしてしてもらう信心修行に当たらせてもらうと、成程これは組織が出来てその組織の、その働きというものが神様のきかんに叶うから、一つの比例になるんだなぁというが分かるでしょう。ね、組織が出来る組織が作るだけなら何処でもつくれれる。けどもそのその組織がです、ね、例えばなら総代会なら総代会という組織が出来たなら、総代会としての働きが出来るようになった時に、初めて神様のきかんに叶うのである。
いうなら、どうでも出来なかった問題でも、解決のおかげになるのであり、どうにも持てなかったような、物が持てるようになるのであり、それは神のきかんに、心に叶うからである。ね、そういうことが言えるでしょうが。どこの、教会でも一応青年会とか、壮年会とか。婦人会とかといったようなのが出きる。そ、組織が出来ただけでおかげが頂けれるというのではない。
その総代会なら、青年会なり、婦人会なりとしてです。その婦人会になり、としての御用が出来る時にこれがなら、さぁそちらを1、2の3で持ち上げるようなもの。そういうことが言えるですね。椛目の場合なんかはそれとはまた、違った意味合いで、久原とは違った意味合いでの組織が、神乍に出来ておる。そのような椛目の会員の全部の方達が、どの会にか所属して、おらなければならないように出来ておる。
現在まぁ出来てていうなら少年少女部会のような、ぐらいな事でしょう。けれども少年少女部会はまぁ作ろうと思えばいつでも出来る。と言う様な状態である。15年前ですら、あんなに沢山の少年少女部会が出来たんですから。ね、それを指導する官掌の人達がおかげさえ頂けば何時でも出来る。まぁここ教会設立と共に恐らく出来るでしょうけれども、ね、一切にその教会の中心ともなり、教会の運営の土台ともなる所の組織がです、組織としての働きが出来る時に、それは勢をそろえた信心という事にある。
それがそのまま、いわゆる合掌の姿と言う事になる。拝み合いの姿ということになる。そこで椛目の場合はそういう組織が、神乍に出来ておる。ね。しかもそれが段々、例えば有名無実といったようなことになり勝ちな、ですよ、その私のしっておる範囲の教会では。ね、少年会が出来たけれども、段々その出来た時には、始めは、あれだったけれど、段々この尻細リになって行く、あるというだけであって、実際の働きが出来ていないというのが実状である。
椛目の場合は、それがだんだんその、スソ細リする事ではなくて、おかげを頂いておる。様々な会が会としてのその個性を現して、そしてそれなりの御用が出来ておると。そこで私はその思わせて頂くのでございますけれどもね、そういう例えばなら総代会なら総代会という会が出来て、ね。総代会としての、その総代会という組織がです、総代会としての御用が出来る時に、一人二人ではどうにも出来んん、10人20人ではどうでも出来ない問題がです、ね。
一人で持ち上がらぬ石でも、大勢が掛け声を揃えて、というその掛け声が揃えるそこに、合掌皆の心が合うという事。合掌という事になりそれが神のきかんに叶う事になり、それがどうにも出来ない問題が、どうにも出来ないのではない。大きな働きとなっておかげが頂けれるという事になって参りますとです、神の心に叶う言わば会のそれぞれのあり方というものが、果たしてこれでよいかという事をもう一遍検討して頂いて
。総代会だけではない、総代会を中心にして、10幾つかあります椛目のその会がです、ね、いっし乱れず、ね全神経に行き渡る。た、ところの働きとなり、御用とならせて頂くところのおかげを頂くためにです、お互いの信心がいよいよ銘々の信心が進められて行かなければいけない、ということになります。例えば美登里会なら美登里会という、うー、まぁ珍しい、椛目にだけしかないような会が出来ておる。
信心共励の機関として、共励をなさっておいかれる。そして何かという時には、美登里会でおかげを頂こうか、と言ったような働きになってくると。そういうような事を、神様がお喜びになるから、五人十人ではどうにでも出来ないことが成就して行くようなおかげになってくるんであるけれどもです、ならその会全体が合掌の姿になっていなかったらどうなります。足の取り合いこ。
お互いが非難し合い、お互いの悪か所だけが目につくような、いわば(家やったらです?)、家族中の者が勢を揃えて信心しておっても、ね、主人が(右の方に?)向かって神様にお願いしよる、家内が左の方、向かってお願いをしよる。これではテンデンバラバラに言わば信心をしておると言うだけではいかん。組織が出来ておるというだけではいかん。テンデンバラバラの言わば祈りであり働きであるというならば、これは大きな石が持ち上がると言ったような事にはなってこない。
そういうような意味で、私は椛目に、折角出来ておるこの組織がです、組織としての、組織体がです、そのまま合掌の姿でです、お役に立たせて頂けれる働きになっていかなければならないということにです、お互い祈りをおかなければならんと言う事を感じます。 そこにはおそらく、私が思いますのに、ね、久原に出来ておる素晴らしいその、組織以上の組織とでも言うでしょうか、人間が作った組織ではない。
神様がお創りになられた組織。ね、その神様の願いに答えて、お互いが立ち上がる、それがそのまま合掌の姿である。一つのところにこうやって合掌する。そういう意味合いにおいて、私はにおいての組織がです愈々、強化されていかなければならないと言う風に感じるですね。どうぞお互いの会そのもののです運営です、ね、例えばなら椛目の神愛会なら神愛会という、ここ全体の信者信奉者によって出来ておる、その会全体の動きというものがです、例えばもう申しますように総代会婦人部会と。
青年部会、その合間合間にあるところの個性を持った所の会その全部がです、ね、一つになって、言わば動き出す。しかも同じ方向に向かって動き出す。そういう働き、そういう働きを私共が願わなければならない。そこで中心になる総代会というものがです、果たして、これで良いのかと。果たして総代会としての御用が出来ておるのかと。世間でよく言う、総代がおる。けれども、大祭の時に玉串上げるための総代。いわゆる玉串総代。そういうような事で良いのかと
。総代としての働きが出来ておるのかと。青年会としての働きが出来ておるのかと。婦人部会としての働きが出来ておるのかと。大祭の時に弁当作る時だけの婦人会であってはならないということ。この辺のところをいよいよ信心でですたい、ね、神様がどういう願いの元に、こういう組織が出来たか、出来ておるかということを、一つ思うてみて。ね、その神乍な組織がです、神乍に動き出すことの出来れる為に銘々の信心を一段進めていかなければ、ならんと。言うこといになるのじゃないでしょうかね。
おかげを頂かねばなりません。